2004年8月3日。ただ一度も勝利することなく、113戦を戦った8歳馬の最後のレースが高知競馬場で行われました。その馬の健闘を称えた最後のレースの名前は「ハルウララ・チャレンジカップ」。最後の年にはスーパージョッキー武豊を鞍上に迎えることができたアイドルホース・ハルウララはなぜそこまで愛されたのでしょうか。

負け続けても走り続けられたこと

ハルウララの一番の人気の秘密は負け続けても懸命に走り続けたことにあります。負けても負けても走り続けることで、人々はハルウララの姿に希望を見たのだと言えます。
しかし、惨敗する馬はたくさんいますが、それでも走り続けられる馬はいません。高額の預託料がかかる競走馬は賞金が入らない限り、出走可能なレースも限られ、走り続けることが困難だからです。ハルウララは勝利こそないものの、年間20回コンスタントに走り続ける丈夫な体がありました。高知競馬は預託料が比較的安く、出走手当があれば預託料をなんとか賄えるくらいになったため、競走生活を続けることができたのです。
ハルウララは生まれた時から気性が荒く、2003年に引退して乗馬へ転向する話が持ち上がりましたが、宗石大調教師がハルウララの気性難を懸念して「走るうちは走らせてあげたい」ということで競争生活が続行され、人気につながったのです。
この勝てなくてもレースに出場できるハルウララの単勝馬券をリストラ防止や交通安全のお守りとして買う人が続出しました。

財政の傾いた高知競馬を救ったこと

ハルウララが有名になったきっかけは、高知競馬のレースを実況していた橋口浩二アナウンサーです。橋口アナは実況前に未勝利の馬について、このレースで何戦目かを確認してから実況に臨んでいました。その中でハルウララが60連敗したころから注目し、
「アイドルホースとして売り出せば高知競馬を盛り上げられるのではないか。」
と考えて高知新聞記者にハルウララの存在を教えたのが発端となりました。その結果、「1回ぐらい、勝とうな」という記事が高知新聞夕刊に掲載されたのです。
この記事を見た高知県競馬組合が「高知競馬のために、なんでもいいからとにかく人目を引くようなしないと」と考え、ハルルララの資料をマスコミ各社に配布したことで全国紙や地上波のテレビで紹介され、人気に火がつきました。
当時、高知競馬は財政が悪化しており、累積赤字88億円は県が肩代わりしました。今度赤字になったら廃止ということで、存続をかけた打開策が求められていました。高知競馬の状況が悪くなければ橋口アナウンサーも、高知県競馬組合もハルウララを売り出すことは考えつかなかったかもしれません。高知競馬を支える人達にとって、ハルウララは救世主であり、より一層の愛着を持ったに違いありません。

バブル崩壊後の底の暗い世相

バブル期に38,915円をつけた日経平均株価はハルウララが人気になった2003年に最安値7,603.76円をつけました。このころが景気の底とされています。経済がどんどん縮小するなかで森永卓郎著「年収300万円時代を生き抜く経済学」が大ヒットし、リストラが横行して9割のサラリーマンが負け組といわれる時代でした。同じ年にはSMAPの「世界にひとつだけの花」が大ヒットし、「No1にならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」という歌詞が競争に敗れた人々の心に響いたのでしょう。ハルウララの懸命な走りはそんな暗い世相だからこそ支持されたのではないでしょうか。

武豊騎手がハルウラに騎乗した当日、平均入場数700人の高知競馬場に13,000人の観衆が詰めかけたことで史上初の入場制限を行い、ハルウララの馬券購入専用窓口を設置したほど、一大イベントとなりました。いつもは競馬場に絶対来ない武豊騎手のお母様もその日競馬場に足を運んだのだとか。それほど、ハルウララは「競馬を超えた何か」であったに違いありません。