「名馬はデビュー前の様子ではわからない。成長力のある馬でないと」とインタビューで答えた安藤克己騎手の言葉をそのまま具現化しているのがオルフェーヴルです。新潟デビュー戦を勝利後に4連敗、3戦目の京王杯2歳Sでは10着と惨敗した「フツーの馬」。その後文句なしの三冠馬になるということを誰が想像できたでしょうか。4歳になってからもスターホースらしい、ド派手な伝説だらけの「稀代の癖馬」オルフェーヴルの最強現役時代を振り返ってみましょう。

暴れ馬を辛抱強く育てる

オルフェーヴルは父ステイゴールド、母オリエンタルアート。4つ上の全兄には宝塚記念(G1)、有馬記念(G1)を勝利したドリームジャーニーがいます。オリエンタルアートはディープインパクトと交配を試みましたが3回とも受胎に失敗したため、ステイゴールドと交配したところ1度で受胎し、オルフェーヴルが生まれたのです。
栗東の池江泰寿調教師のもとへ入厩しましたが、当時は入れ込みが激しく、競走馬になれないのではないかと思ったそうです。新馬戦は上がり33.4秒で2着のショウナンパルフェを1・1/2馬身で勝利したものの、直線では内ラチまで行ってしまい、ゴール後には鞍上の池添謙一騎手を振り落として放馬という暴れぶり。デビューから3戦目京王杯2歳Sまでの池江調教師や池添騎手のコメントからは「精神面を鍛えなおしたい」「本当に子供。まだ気性が幼すぎる」など、手を焼いている雰囲気が伝わってきます。そして、京王杯2歳Sで10着と惨敗したことで、朝日杯フューチュリティステークス(G1)をあきらめ、放牧へ出しました。自立心を養うために他の馬から離して1頭のみで調教するといった努力がのちに実を結ぶことになります。

才能が開花した3歳

そして、陣営コメントはその後のシンザン記念(2着)、きさらぎ賞(3着)から「直線はさすがと思える脚」「この経験が春への糧となってくれればいい」と期待に満ちたものに変化しています。
才能の片りんがはっきりと表れたのが、皐月賞トライアルのスプリングSです。それまで折り合いに課題がありましたが、今回は後方で、少し行きたがるのを池添騎手が手綱を引いてなだめる程度。最後の直線で大外に持ち出し、内へ切り込んで後続を突き放して勝利しました。陣営が目先の勝利に捉われず辛抱強く教えてきたことが花開いた瞬間でした。
その後は年末の有馬記念まで怒涛の7連勝、クラシック3冠を含むG1 4勝。皐月賞では「最後の1ハロンで抜け出したときに、この脚ならだれも追いつけないだろうと思いました」と池添騎手がコメントするほどの圧勝劇。ダービーでは激しい雨の降る不良馬場のなか、直線で不利がありつつも最後抜け出して勝利。池添騎手も「普通の馬ならあそこで終わっていたと思うけれど、すごい勝負根性を見せてくれました」と称えました。
秋になって神戸新聞杯では+16kg、菊花賞ではさらに+6kg。池江調教師が「馬が自分で体を作っている」と言い、解説者が「男馬、実りの秋」と感嘆したほどの充実した馬体は威風堂々としてオーラで圧倒されるほどでした。菊花賞では後続の馬を軽く突き放し、最後は流してゴール。ゴール後にはデビュー戦と同じく池添騎手を振り落とし、相変わらずやんちゃでした。栗毛というとたくさんいるように思えますが、三冠馬はオルフェーヴルが初でした。

まさかの逸走・惨敗を乗り越えた4歳

その後有馬記念で古馬との闘いも制し、海外参戦も視野に入れて盤石の態勢で挑んだ4歳。しかしここでも大波乱が待っていました。オッズは1.1倍、誰もが勝利を疑わなかった阪神大賞典(G2)。曇り空、稍重のコンディション。オルフェーヴルはいつもより前目の位置でレースをします。そして1週目、ホームストレッチでナムラクレセントが他の馬をかわしてハナに立つとオルフェーヴルはそれを追いかけるように2番手に上がります。そしてバックストレッチでは外からナムラクレセントを追い越して1番手にまで上がり、オルフェーヴルのいつもと違う展開に会場がざわつきます。この不吉な展開が現実のものとなるのは第3コーナーのカーブ。オルフェーヴルはそのコーナー曲がらずなんとそのまま外ラチまでまっすぐ走ってしまったのです。懸命に手綱を引く池添騎手。必死のブレーキで馬のペースを落とします。すると、オルフェーヴルは半ば競走を中止したようにスピードを落としましたが、最後方の馬が前を走っているのを見て、もう一度追いかけ始めます。そして、直線信じられないような伸びを見せ、1着のギュスターヴクライに半馬身差まで詰め寄りました。
この逸走の原因には諸説ありますが、「人馬の意思疎通が図れていなかった」という見解が多いようです。オルフェーヴルはこの逸走により平地調教再審査を課され、その内容は「単走一定以上のスピード」という条件下でもコーナーをしっかり回れるか、というものでした。つまり、他の馬に合わせて環境での試験となったことからも、JRAも同じような見解だったと見られています。
そして、この審査がオルフェーヴルの力を削ぐ結果となったといってもいいでしょう。人に従わせようとする調教がオルフェーヴルの自由奔放さを封じ込めてしまったのかもしれません。続く天皇賞春は11着と惨敗します。そこで、陣営がもう一度入念なケアをして、ストレスを徹底的に取り除き、オルフェーヴルの持つ奔放さを活かす調教に変えていったのです。続く宝塚記念(G1)の時は体調は7割以下という状態にも関わらず、他の馬と明らかに異なる鋭い脚色で2馬身差の勝利を手にすることができたのも、陣営の血のにじむような努力なくして達成できませんでした。

もう少しで手が届いた凱旋門賞

そして挑戦した凱旋門賞。前哨戦のフォア賞を危なげなく勝ち、1番人気で迎えた世界最高峰のレース。スタートから中盤まで、後方でよく耐えて直線で万を持して抜け出します。他の馬が止まって見えるような鮮やかに末脚で突き進み、勝利は目前かに見えました。しかし、残り20mで後ろから追いかけてきたオリビエ・ペリエ騎手のソレミアにあっさりとかわされてしまいます。ペリエ騎手は「前の馬が勝手に止まった」というようにオルフェーヴルは内へもたれてしまう癖がスタミナ切れを起こしてしまったと言われています。
翌年も凱旋門賞に挑戦し、前年と同じ2着。しかし、池江調教師は「去年はあと少しと思えたのに、今年はまた遠のいてしまった」と語り、他の馬との力の差を認めましたが、オルフェーヴルが凱旋門賞に一番近づいた馬であるのは間違いありません。次の引退レースとなった有馬記念もオッズ1.5倍2着のウインバリアシオンになんと8馬身の差をつけて勝利し有終の美を飾ったオルフェーヴル。ファンは毎回ハラハラしながらレースを見守り、そして、競馬のあまたあるレースでの中でも滅多にない高揚感を与えるレースを展開したこの馬は間違いなく最強の競走馬でした。